日本自動車の国際競争力の向上

ロサンゼルスでは巨大な高速道路が都市の真ん中を貫いている。私もその高速道路でクルマを運転中、スモ。グに出合ったことがある。上り下り合わせて一〇車線の高速道路を、見渡すかぎりの自動車の大群が、静々と這うように動いていた。世界中の自動車がそこに集まったかと思われるほどの壮観であった。公害病だけでなく、こののろのろ運転による経済的損失も、アメリカの世論を排ガス防止に向けさせたのであろう。

一九七〇年にマスキー上院議員が、大気浄化法改正案を議会に提出し、可決されたのが、日本の排ガス浄化技術の開発の発端であった。排ガスのなかで、特に人体に有害であるのは、一酸化炭素炭化水素、窒素酸化物の三つである。窒素酸化物の処理が特に難しかった。単純な理屈か亘呂えば、それらを含めて燃料を完全燃焼させれば、問題は解決するのであるが、それまでの世界の自動車メーカーは、エンジンのなかの燃焼のメカニズムを厳密には解析していなかった。

一九七四年、当時の三木環境庁長官は、自動車メーカーに対して、七八年までに、窒素酸化物の排出量をマスキー規制値どおり、走行一キロメートルあたり〇・二五グラムとするよう強く要請した。最初は一部のメーカーが反発したが、結局は一九七八年に、どのメーカーもその規制値を達成した。その技術開発のために、エンジンのなかの燃焼機構が初めて科学的に解明されたのであった。したがって、日本の自動車エンジンの性能は飛躍的に向上した。排ガス規制値が達成されたばかりでなく、燃料消費量も低下し、加速性も良くなった。

メーカーの人の話では、すばらしいエンジンが開発されたとなると、乗用車の足回りやボディなどの分野でも、技術者や労働者たちは、エンジン部門に負けるなと奮い立つそうである。日本の乗用車の技術はあらゆる点てさらに前進した。その時代はまた、石油パニックの衝撃で、自動車の燃費の良さが、クルマの大きな魅力となった時代であった。日本の乗用車の国際競争力は一段と増した。それは、日本経済が原油輸入額の高騰を吸収できた一つの重要な要因であった。