細川政権の姿勢

日本では、新たに誕生した細川政権の内部で、首相官邸と外務省の調整が難航したが、結局、九月に国連総会では「改革された国連で、なし得る限りの責任を果たす用意がある」と表明した。これは、PKOの見直しや財政の建て直しなどの国連改革を前提に、立候補を宣言したもので、宮沢前政権の意見書を踏襲しながら、抑制をきかせた表現だったと言われる。

しかし後に細川首相は、参院予算委員会で、「国連改革は前提ではない。先に推されてなるならば、その後に改革の動きが本格化することになる」と答弁し、先に常任理事国入りもあり得る、という立場を取ったことを明らかにしている。

この総会では、ドイツのキンケル外相も、「常任理事国として責任を果たす用意がある」と、日本と足並みを揃える表現を使い、米国以外の常任理事国四力国も、基本的には支持の姿勢を表明した。総会は十二月に、安保理改革を検討する作業グループを設置し、九四年秋の次期総会までに中間報告を提出するよう求める決議案を採択した。

その後も、十一月にはモンゴル、九四年三月にはバングラデシュとフランス、四月にはカザフスタンなどの諸国首脳が、それぞれ来日時に、日本の常任理事国入りを支持する共同声明を発表するなど、国際世論形成は着々と進んだ。細川政権を継いだ羽田首相も常任理事国入りには強い意欲を見せ、引き続き、働きかけを続けた。九四秋の総会では、安保理改革が最大の焦点になることは間違いなく、遅くともガリ事務総長が目指した九五年の秋までには、改革の方向が明らかになる見通しだ。