弱者を利用する強者の論理

沖縄の社会は、憂うべき、情けない状況を呈している。人びとが生き方の指針として日常的に口にしてきた「命どう宝」(命こそが一番大事)というズロい言葉が、いつしか「銭どう宝」(お金が大事)に変わりつつあるからだ。この世は、お金がなくては、生きていけない。

それは、わかる。しかし同時に、「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉にもあるとおり、人間の生活においては、お金で買えない大事なものがある。いくら多額のお金を積んでも、人の命を買うことはできない。また人間には、命と同様に、お金で買えない人それぞれのプライドや価値観といったものもある。したがって、たんに物質的満足だけを唯一の目的として生きるのでは、「まっとうな人間的生き方」といえないのも、また事実。

たとえ、物質至上主義の価値観から金銭的欲望を満足させ、物理的にはゆとりある生活ができたとしても、真の意味での人間らしい生き方からすると、逆にそれによって精神的な死を意味する場合もありうる。それだけに、いたずらに、「銭どう宝」とばかりに、「こころ」を売ってまで物質的欲望の追求に`汲々とするのは、問題ではないだろうか。

「銭どう宝〜の風潮が、とりわけ急激に沖縄社会を浸蝕するようになったのは、むろん、政府が二〇〇〇年七月の「サミット」を沖縄で開催するのと引き換えに、県民の大多数が拒否している普天間飛行場の代替基地を、名護市南東の辺野古「沿岸」地域に新設しようと図っていることに起因する。つまり、県も名護市も、将来のことはろくに考えもせず、目先の現実的思惑から、北部振興策をまるでアメ玉のように県民や市民の眼前にぶらさげ、基地の誘致を図っているからにほかならない。