アメリカ人の理想として描かれつづけてきた独立自営農民

このような都市の人間像は、純朴で正直な独立自営農民のイメージと、まったく対照的であった。ジェファスン的基準でいえば、都市の人剛は国民の「不健全」な部分であり、その「不健全」な部分が、こんなに増加したのはアメリカがそれだけ「腐敗」したことを意味するのであったのかもしれない。そして、じっさい、そういう独立自営設民的なアメリカ人像と、スマートな都市的アメリカ人像とが正面からぶつかり合った歴史的事実もある。たとえば十九世紀おわりにはじまる禁酒運動などがその適例だ。

シンクレアは、禁酒法およびそれに先行する禁酒運動を、本質的には、農村と都市との利害の衝突とみた。というよりも、都市文明にたいする農村からの敵意のあらわれとみた。かれによれば、一八九六年の大統領選挙でマッキンレイがブライアンを破ったときから、農村の都市に対する恐怖感は決定的に強化された。アメリカの政治への、農業のがわからの発言権がこの大統領選挙以来、大幅に減ったのだ。経済面では富は都市に集中し、農村は、ますます取り残されてゆく。

アメリカ人の理想として描かれつづけてきた独立自営農民は、人間像としては依然として理想であっても、その事実上の力からみると完全に無力化した。ホフスターのことばを借りれば、「ほとんどすべての人から口先であたえられる賞讃と、じっさいにあたえられている経済的地位との落差を考えてみると、農民たちは困惑し、また腹立たしさをおぽえるの后」

そんな危機感から、農民たちは、あらゆる都市的なものを「悪Lとしてみた。都市の膨脹は、アメリカにおける「悪」の肥大化であった。農業が「神のあたえ給うた」土地のうえで着実に進行しているのを、都市という名の悪魔が妨害しようとしている。そんなふうに農民たちは考えた。彼らによれば、アルコール飲料も、都市のものである。アルコールは都市から村の酒場に流入する、悪魔の飲料であった。アルコールを攻撃することで都市を攻撃するというのは、どう考えてもヒステリー反応としか言いようがないが、そのヒステリー反応が、ついに禁酒法をつくってしまった。

ジェファスン的小農民のもつ人格的イメージは、それなりにみごとなアメリカ人の理想像だ。しかしその理想像と交替しあって二十世紀になってからとりわけきわ立った存在になってゆくのが都市のアメリカ人である。こんにちのわれわれが皮相的にうけとるすべての「アメリカ的」なものは、はっきり言ってことごとく都市のものだ。都市と農村の対立は、いうまでもなく、人類史上に都市が発生したときからはじまっている。