手数料以外に収入源がない

当時の二次代理店業者が、その手の内を明かす。「契約を取ってきても、中には解約する人がいる。最初のうちは仕方がないかなと思っていたが、次第に増えていくんです。契約した時の窓ロはうちですから、うちに解約を言ってくる。そこで詳しく聞いてみると『光通信から、いったん契約を取り消してくれ』といわれたからだというのですね。取り消させておいて、今度は自分たちが契約する。こうすれば、光通信は自ら営業せずに契約を取れる。そして、二次代理店には、解約が出たからといって調整金を請求するわけです」。

手数料以外に収入源がない光テック、電創は九四年に倒産。両社はキャンセルの理由を明らかにしないのは不当として、手数料の未払い分の五億四千八百万円の支払いを求める訴訟を起こした。光通信が「調整金」名目で手数料から控除・相殺したことは不衝平、錯誤の理由により無効だと、裁判で主張したのである。

これに対して光通信側は「こうした控除・相殺は委託業務内容の未完了による当社の正当な返還請求権の行使である」(『第十二期有価証券報告書 九九年八月期』より)と主張して争った。この訴訟は、急成長したベンチャー企業の創業者同士の仲間割れとしてマスコミで大きく取り上げられた。このため、光通信は九六年二月二十一日に内定していた店頭公開が一週間遅れ、二十七日にズレ込んでしまった。遅れたとはいえ三十一歳での株式公開は、西和彦アスキー社長の三十二歳を下回る、史上最年少記録である。しかし、重田自身は「ビルーゲイツと同じ三十歳での株式公開」に強く執着していた、という。

「店頭公開する大事な時期に(久保田が)裁判したでしょ。それで三十歳で株式公開するというかダメになってしまった。だから重田はヘソを曲げて、『和解はしない、徹底的にやる』と決めたんだと思います」(創業当時の仲間の一人)この事件には、重田の事業観が色濃く映し出されている。事業のためには、友人であろうと何であろうと、冷徹に切るのである。市外電話加入事業に見切りをつけ、携帯電話の手数料ビジネスに切り替えるには、これまで付き合ってきた代理店は足手まといだ。「調整金」を利用して市外電話ビジネスにまつわる過去を、スパッと切り捨てたのである。

これは、ニシキ蛇に生きた餌を与える重田が「強いものが弱いものを食べるのは当たり前だ」と言い放った話と見事に符合する。弱い二次代理店は、まさにニシ牛蛇=重田に食われてしまった、生きたウサギなのである。