大規模な民族移動

ティグレ人からアムハラ人へ勢力が移ったのも、キリスト教が伝播してすぐくらいで、以後はアムハラ人の支配者が国内をまとめていった。七世紀にはアラブの侵攻があり、イスラム教がもたらされたが、エチオピア高原の人々はキリスト教を守り通した。イスラム教を拒否しながらも王国は、おもに象牙、香木、四世紀に支配下においたクシュ(現在のスーダン)の金などをもとに、ペルシアやインド、紅海からエジプトを通じて地中海諸国との交易で成り立っていた。

王国を構成する両民族はエチオピア高地にあり、自然の要塞に守られていたともいえよう。高地周辺、南部の平地にあったオロモ、アフッル、ソマリの民族は、牧畜民がほとんどで、イスラム教を信仰するようになった。七世紀にエチオピア高地の王国が勢力を失うが、教会(エチオピア教会)がまとめ、約一千年にわたって、イスラム教徒とキリスト教徒は対立しながらも、どちらが征服するともなく続いた。

一七世紀になると、高地周辺にいたオロモ人が大規模な民族移動をおこない、国全体が群雄割拠の状態に陥る。高地に広く定住したオロモ人のなかには、教会に影響されて改宗する者、農耕につく者もあらわれた。宗教面でも国家を安定させるとの理由でカトリックが一時、国教とされるなど、混乱をきわめた時代といえよう。

国内を再統一したのは、一八八九年に即位したメネリクニ世によってであった。彼は植民地政策にのって進出してきたイタリアに対して、エリトリアを差し出したり、アムハラ人である彼は、オロモやソマリといった民族集団を抑圧する政策をとったことで民族間の対立が表面化する。一九三五年には、イタリアの支配下に入るが、一九四一年には国際世論の応援もあって独立を果たし、アフリカではきわめて珍しく、植民地化を免れることができた。このとき、エリトリアはイギリスの統治下に入るが、一九六二年には分離独立紛争でエチオピアに敗れ、併合された。紅海に開いた交易の窓口として有用だったというのが大きな理由だった。

一九六〇年代には、エチオピア各地で地域、民族の単位での紛争が頻発した。一九七四年には、エチオピア革命が起きる。大上地所有者として国家を封建的に支配していたエチオピア教会と貴族への不満が爆発し、人々が立ち上がったのだ。一九七五年には国王を退位させ、農地や銀行、企業を国有化するなど、社会主義への改革が実現した。