保守強硬派として知られる

二〇〇七年一月十五日、中国の「八大長老」といわれた古参指導者で、最後に生き残った薄一波が老衰で死去した。享年九十八歳。二十一日、北京西郊の八宝山革命墓地で行なわれた葬儀には国家主席胡錦濤をはじめ、首相の温家宝ら現役指導者のみならず、上海「政変」以来、引きこもりがちだった前国家主席江沢民ら古手の指導者も姿を見せ、江は相変わらず胡に次ぐ党内序列二位で報道された。胡が遺族を弔問する写真の手前には、沈痛な面持ちをした次男の商務相・癩大閑〕(現重慶市党書記)の姿が大写しされていた。彼の沈んだ表情は、自らを庇護してきた父親の死を悲しむだけでなく、その年の秋に開かれることになっていた党十七回大会を控えて、父の死が自らの政治的前途に暗雲を投げかけたことへの憂いが感じられた。

保守強硬派として知られる薄は、一面では、その時々の最高権力者に取り入るという世渡りにも長けていた。文化大革命で失脚した薄の名誉回復に奔走した胡耀邦の恩も忘れ、切り捨てを決意した鄙小平の意向を受けて、一九八七年に起きた学生運動への対応が手ぬるいと胡を弾劾する先頭に立ち、総書記を失脚させた。このため八九年に胡耀邦が憤死した後、遺族から葬儀への参列を拒否されたという逸話はあまりにも有名だ。江沢民が総書記に就任してからは、九二年の楊尚昆(軍事委員会副主席)・白冰(同秘書長)兄弟との軍権をかけた闘いでも。九五年の陳希同北京市党書記’(政治局委員)とのポスト鄭小平の権力闘争でも、いずれ心江の側に立ち、その実権確八を助けた。

江沢民が足を向けて寝られない薄に対する論功行賞の恩恵をもっとも受けたのが、息子の薄煕来にほかならない。四九年七月生まれの薄は、高級幹部守兄弟が通う北京第四中学時代に文化大革命が起きると、「革命家の子は革命的」の今回薬で高級幹部う弟を中心に始まった初期紅衛兵運動に参加する。そして、毛沢東天安門楼上で接見した五人の紅衛兵「革命少将」の一人にも選ばれた。七八年、文革で閉ざされた大学の門が開くと、ただちに北京人学歴史学部に入り、中国社会科学院の研究生を経て党中央官僚の道を歩み始める。八九年には口にしくも、開放政策で脚光を浴びた遼寧省大連の巾長代理になり、「年後、市長になると「北の香港」を今甘葉に外資の呼び込みに力を入れ、ファッション祭りを開くなど派于な対外宣伝をくり広げる。ちなみに当時の大連の人々には、「北の香港」というスローガンは極めて評判が悪かった。当時の市幹部は、「なぜ植民地の香港と同列に扱われるのか」と憤りを隠さなかった。

行政手腕について唇、日本企業の誘致に奔走した前任市長の遺産を食いつぶしただけとの酷評が聞かれた。二〇〇一年には大連が属する遼寧省の省長代理、その後、省長に昇格するが、大した実績を挙げることなく二年後には対外貿易をめぐる交渉などでとかく脚光を浴びる花形ポストの商務相に芋麗々転身を遂げる。通例、省長を務めると次にナンバーーの党書記に就任するが、薄煕来に党書記をさせなかっだのは地元の利権が入り組んで腐敗の巣窟だった遼寧に長く置いて経歴に傷がつくのを避ける配慮だったといわれる。遼寧離任の際は瀋陽街頭に万余の群衆を動員、省長に別れを惜しむ光景を演出して内外の輦療を買った。この間、二回の党大会で中央委員に落選、二〇〇二年の党十六同人会でょうやく中央委員の座を射止めた。このように評判の悪い薄煕来ではあるが、○二年党大会では次期指導者含みで李克強の政治局入りを画策した胡錦濤に対し、それをつぶす目的で江沢民らは薄を対拡馬に推し、双方が痛み分けする形で終わった。

しかし、そのときから薄煕来はポスト胡錦濤の有力リーダーの一人に数えられるようになった。しかし、父親の死と、李克強に比べると六歳も上の年齢は明らかにマイナスだ。薄が団派の対抗馬足り得ないとなると、太子党の有力候補は浙江省党書記の習近平(現政治局常務委員)が浮上する。習は一九五三年六月生まれ。二〇〇二年に死去した長老、習仲勲の子息だ。清華大学出身で福建省を中心に行政経験が長く、一九九九年から省長代理、省長を務め、二〇〇二年に浙江省党書記に就任した。父親と同じく性格が比較的温和で、他人の意見をよく聞くと、とかく評判の悪い太子党の中では評価が高い。○二年には、薄と同しように李克強の政治局入りを阻止するため次期指導者の有力候補にノミネートされたが、政治局入りはならなかった。