情報処理はデジタル優先

情報の伝達という立場で見ると、確かにデジタルの方がすぐれている点が多い。アナログ情報は、そのままわかるが、伝達の途中で、汚染や変化を受け易い。つまり、雑音が入り易い。電話が聞きとりにくかったり、ラジオがよく受信できなかったり、飛行機が通ってテレビの画像が乱れたりすることは、よく経験する。一方、デジタルの方は、Oと1つまりパルスが生じるか否かのような表現法であるから、パルスの有無さえ識別できれば、複雑な情報を汚染されないで処理できる。

このことは、デジタル型の計算器具のそろばんと、アナログ型の計算尺を比べてもよくわかる。そろばんでは、珠や軸が少しぐらい変形しても、珠の上下位置が変わらなければ、演算が狂うことはない。一方、計算尺の方は、がたがきたら正確な計算は不可能である。

こんなわけで、情報処理が、デジタル優先になるのは、当然ともいえる。では、デジタルだけで良いかというと、そうはいかない。デジタルで送られてきた情報を、連続的なアナログ量に変換したときに、初めて人間は理解できることが多いように思われる。たとえば、モールス符号などは、それが言語に翻訳されて、初めて人間にわかるのであって、受け手がその翻訳方法を知らなかったら、情報は伝わっても、無意味である。

近年、人間の認識の仕方の特徴として、「パターン認識」があげられている。「あの人は美人だ」という場合、その人の顔の全体の印象をパターンとしてとらえているのであって、顔や眼の長さ、鼻の高さ、口の大きさなどの要素をデジタル的にとらえて、それらから判断しているわけではない。文字にしても同様であって、私のような悪筆の原稿が活字に印刷されるのも、編集者と印刷屋さんにパターン認識の能力をフルに発揮していただけるおかげである。

パターン認識は、また抽象化につながり、人間の共通理解のもとになることもよくいわれている。それは、もちろんアナログ型の認識の仕方である。このように考えてみると、人間が本当にわかったと感じるのは、アナログ的なものであり、それなりのイメージが得られたときではないかと思われる。