通貨同盟の先行

両ドイツの統一は決して容易なことではなかった。統一ドイツが強大化することに脅威をもつ周辺国が強く反対したし、統一ドイツの軍事的脅威の潜在性からみて反対する国も出てきた。フランス、ポーランドソ連(とくに保守派)の反対がとりわけ強かった。だが、両ドイツの統一を遅らせることによる中部欧州地帯でのリスクもまた無視しえなくなっていた。このなかで、東西ドイツの早期統一は中欧地域の不安定化回避という必要性も手伝って、米・ソ・仏・英の戦勝四力国でも次第に合意せざるをえなくなった。

東西ドイツの政治的統一については二案が提示された。第一案が西ドイツ基本法第二三条に基づき、西独が東独を併合し、五州に分割する方法であった。第二案は、西ドイツ基本法第一四六条を援用し、現行基本法を終了させたあと、新憲法を制定し、両ドイツが法的には対等な地位で統一する方法であった。

そしてこれには全ドイツでの国民投票が必要であった。だが、事態の変化か予想を上回る急ピッチであったこともあり、統一までのプロセスに時間がかかり過ぎる第二案ではなく、第一案に従って、西独が東独を吸収す石形で統一が図られた。法的に統一が完成したのは九〇年一〇月三日であった。この日をもって国家としての東独が消滅した。八九年一一月九日のベルリンの壁崩壊からわずか一一ヵ月で両ドイツの再統一をみたことになる。

再統一が政治的背景から予想外の急ピッチとなったため、経済面での統合化プロセスも大幅な手順変更を余儀なくされた。実際、東西ドイツの通貨同盟を東独における経済改革より前に、先行実施せざるをえなくなったのである。このプロセス変更は、再統一の成否に関して、大胆なギャンブルに出たも同然であった。

両ドイツ間の経済格差は歴然としていた。このため、当初は少なくとも三年程度を費やして東独の経済基盤を改善し、生産設備の近代化や効率化を高める一方、経済体制を社会主義型から資本主義型へと移行させる、いわば経済的リハビリを実施することが考えられていた。通貨・経済同盟に移行するとしても、東独において経済改革を実施した後に来るべき課題であった。だが、東独からの激しい人口流出は、経済的側面から判断した望ましい再統一への移行過程を許容するほどに悠長なものではなくなった。