事実を正確に観察

スタンフォードにいく前の私はもちろんこの仮説という言葉には何回も接していた。その場合、科学における理論は決して最終的なドグマであってはならないという点が、強調されていたように思う。科学における理論は常に新しい事実の発見とともに、いつでも変更される仮の結論でなければならないという点が、強調されていたように思う。そして「原因」と「結果」とを論理的に結びつけるという、因果論の文脈で仮説をとらえた議論は、一度も聞いたことがなかったように思う。しかしこのような因果関係の追求が、アメリカの社会科学の、中心的な課題であることを知ったのは、その後サンーフランシスコの郊外のバークレーにある、カリフォルニア大学の社会学部にいってからであった。

心理学やコミュニケーション研究のように厳しい実験的方法を用いる分野においては、研究に関する諸現象のうち、「原因」となる現象と「結果」となる現象との区別は、常に明確に規定されている。なぜならこれらの両者の関係がハッキリしていなければ、実験の計画など立てようがないからである。しかし社会学歴史学になると、いわば少数の人々を集めて宣伝映画を見せるというような、心理学的な実験と異なって、もっと複雑な生きた現実を取り扱わなくてはならない。従ってどの現象が「原囚」で、どれが「結果」であるか、実験のように明確に規定できない場合が多い。

そこでこれらの要素を確定しないまま研究を進める場合がでてくる。そのためであろう。バークレー社会学部に移ってから私はしばしば、社会の研究における「記述」と「説明」とは本質的に異るものであるという議論を、聞くようになった。つまり「説明」の方が、「記述」よりは一段と高度な研究で、およそ社会学者たるもの「説明」を行うよう、努力しなければならないというのである。ここでいう記述とは英語でdescription説明とはexplanationという。

それでは社会学者がここで問題にする記述と説明とはなんなのであろうか。およそ現実の社会現象を研究するには、現実の現象がいかなる状態にあるかを正確に観察し、それを客観的に記録しなければならない。たとえば新しく召集された兵隊がこれから参加する戦争について、必要な知識を持ち積極的に戦う意志があるのか、これらの事実を正確に観察して記録することは、もっとも基本的なことであろう。これは「記述」といわれる研究方法である。記述的研究にはたとえば、人口の増加率、自殺率、離婚率などの増減を正確に観察し記録することなどがあるだろう。

これらの観察と記録とを行うこと自体が大仕事であるだけでなく、社会の研究にとっては、なににも勝る基本的な作業であることは言うまでもない。しかしながらこれらの社会的現象の正確な観察と記録は、それ自体では「なぜ自殺率が増加したのか」という「なぜ」という、疑問に答えるものではない。そしていかに正確な観察に基づいた客観的な記録であっても、「なぜ」という疑問を考えないのであったら、それは因果関係を問題としない記述的な研究に他ならない。それは科学として、低次な段階にとどまるものに過ぎない。