護送船団行政の破綻で没落

「非公開の金融情報」を限定した企業に提供する、とのうたい文句で会員に誘い、会員の金融機関から一社当たりなんと年間三〇〇万円もの寄付金を会費として納めさせてきた。このような超高額の寄付金を要求できたのも、同基金が監督権を持つ大蔵省によってつくられ、歴代大蔵トップが天下る法人だったためだ。

会員の三分の二を占める銀行・証券・保険など金融機関側は、大蔵省の機嫌を損ねないよう、泣く泣く会員になって高すぎる寄付金も納め、なかには同社団に協力するため社員を研究目的などとして、給与は自己負担で派遣した銀行もあった。

ところが、バブル経済の崩壊とともに大蔵省の護送船団式金融行政は破綻し、金融機関も同省の保護を当てにできなくなったばかりか、自らも不良債権の重荷から経営不振に陥った。そこで、会費に見合うメリットがなく、活動実態もはっきりしない、たかりが過ぎるとして、九八年春から富士銀行、大和銀行東京三菱銀行三和銀行など大手銀行が相次いで同基金を脱会し、他の金融機関も追随したのである。

かつては、初代の財務官に次いで二代目から問題が表面化する五代目まで、歴代の大蔵事務次官OBが次々に理事長を務めた。二代目が西垣昭氏でのちに海外経済協力基金総裁から東京海上火災保険常勤顧問、三代目が平滓貞昭氏で国民金融公庫総裁を経て横浜銀行頭取、四代目が保田博氏で日本輸出入銀行総裁から海外経済協力基金と統合後の国際協力銀行総裁、そして五代目が「十年に一人出るか出ないか」の大物といわれながら政権時代の小沢一郎氏に寄り添ったとして自民党から冷遇された斎藤次郎氏で、のちの金融先物取引所理事長である(斎藤氏は同基金批判を受け、九八年三月末に在任一年余りで辞任、後任に館龍一郎・東大名誉教授が就任した)。

こういった次官OBが次のポストが決まるまでの問、理事長を短期間務めたことから、「大蔵次官の雨宿り法人」とか「腰掛け法人」「風と共に去りぬ法人」などと呼ばれた。九六年度当時は金融機関から年間六九〇〇万円もの寄付金を集めた同基金も、脱会が相次いで資金源を次々に失い、いまは事業が破綻同然だ。