売買の裏付けがあって初めて確認される価値

日本では株式市場がいま一つ効率化されていません。そのために、資源配分が最適化されず、経済が目一杯拡大しないというのは、われわれ国民全体にとって不幸なことです。しかし見方を変えてみますと、このような市場だからこそ、あなたは「儲かる株」を見つけやすいといえましょう。もしかしますと、今の日本はちょうどバフェットが投資会社をスタートさせた一九五六年のアメリカのような状況なのかもしれません。だとすれば、あなたもバフェットのように振る舞うことで、億万長者になることができるかもしれません。

M&Aとは、マージャーズーアンドーアクウィジションズ (Mergers & Acquisitions) の略で企業の合併・買収のことです。時折、「神聖な企業を売買するなんてけしからん」と憤る人もいますが、おおかたが、会社と個人を公私混同している経営者とか、権力にしがみつく老害経営者の言葉であったりします。

証券取引所で株式を売買するということは、企業の一部を売買することにほかなりません。株を上場するというのは、全世界に向かって「自分の会社の一部を買ってください」と値づけを誘っているようなものです。企業の売買を否定するのであれば株式会社の形態を取らずして、個人商店の形を取るべきです。上場などやめて、未上場化(これをゴーイングープライペート、GOPと呼んでいます)したほうがよいと思います。

企業が売買されるからこそ、キヤツシューフローで算出される「企業価値」が意味を持ってくるのです。株式市場で取引される株価と実際の企業の価値とが結びつくのです。企業の一〇〇万分の一や、一〇万分の一を売買する証券取引所でのこうした日常の株式売買取引だけでは、本当の企業の価値を表わす形での「価値設定」がきちんと行なわれない恐れもありえます。M&Aという実際の企業の売買の事例があって、初めて価値が確認されるのです。M&Aは、株式市場の効率化を助けているのであり、資源配分の最適化に寄与しています。資本主義経済においては、なくてはならない存在なのです。

得点法の人事評価

六十代の人々の雇用労働への参加率は近年わずかではあるが、むしろ上昇の気配を見せている。これは人々の就業意欲があるところに、企業の高齢労働力活用への志向性が少しずつ高まっている事を示唆しているのかもしれない。五十代の後半から六十代の人々の活力をいかに高めて活用するかを、これまでの日本の社会や企業ではあまり考えてこなかった。しかし、これからはそれが企業にとっても経済社会にとっても大きな戦略課題となる。これに成功すれば、女子の活用と合わせて日本の企業も社会構造の変化に適応したノーマライズされた企業になるのである。

この課題は総合的な課題である。年をとってからの活力は急に出てくるものではない。若い頃からの積み重ねと準備が必要だ。健康管理、充電、学習、経験、友人づくりなど総合的なものである。年配者が働きやすい環境をつくるには企業だけでなく社会や政府の対応も大きな鍵を握っている。

政府の課題については次で述べることとし、ここでは企業の人事課題のひとつを取りあげよう。それは得点法の人事評価の活用という事である。高齢者雇用の重要性が叫ばれるにも拘らず実態として高齢者の雇用があまり進まないことの理由は何だろうか。高齢者の賃金が比較的高い事がその障碍のひとつかもしれない。しかし、賃金が高い事自体は問題ではない。高い報酬をとる高齢の経営者はいくらもいるが別にそれだからといって問題になることはない。問題は賃金にふさわしい働きがあるかどうかという事なのである。働きが不充分であれば低賃金でも問題である。

つまり高齢者雇用の最大の問題点は高齢者がその持てる力をフルに発揮して仕事ができるかどうかなのである。中小企業の経営者に聞くと、高齢者の雇用については複雑な反応が返ってくる。自分の会社に長く働いていて高齢になった人はともかく、別の大会社などから高齢者を雇い入れることには二の足を踏む経営者が多い。管理職などで経験のある人を雇いたいのだが、定年近くなった人は覇気がなくて使い難いという。

経済学の常識

日本の税制は、退職給与引当金にみられるように、伝統的な製造業(なかんずく重厚長大産業)に対して多くの特典を与え、税負担を軽減している。しかし、その半面で、ソフトウェアや情報関連の事業や投資に関しては、あるべき水準より重い税負担を課している。この状態を是正し、技術構造の変化に合わせた税制を構築することが必要だ。しかし、現実には、逆方向の動きが生じている。

従来の税制では、取得価額が二〇万円未満の資産については、事業の用に供した事業年度において全額を損金参入できることとなっていた。これが、「少額減価償却資産の即時損金算入措置」である。しかし、九八年の税制改革で、この基準が一〇万円に引き下げられることになった。

これは、ちょうどパソコンや周辺機器、あるいはファクス機などの価格帯である。したがって、基準額の引き下げにより、これらの損金算入額が制限されることとなり、その結果、OA機器に対する需要は抑制される。引き下げの理由としては、「収益が多額になった事業年度の節税のために、大量の少額資産を購入するケースがある」ということがあげられた。しかし、仮にそうした問題があるのなら、総額基準を導入して制限すればよいのである。ベンチャー企業の多くは事業規模がさほど大きくないから、総額基準を数千万円程度にしておけば、ほとんど影響を受けないであろう。

パソコンは技術進歩のスピードが速いため、事務能率の向上を追求するためには、最新の機器に次々に買い替えてゆくことが必要だ。事実上は消耗品であり、減価償却制度にはなじまないとさえいえるのである。また、技術進歩が激しい分野のベンチャー企業は、事業開始後できるだけ早期に投下資本を回収する必要があるため、減価償却期間はできるだけ短いことが望ましい。

こうしたことを考えれば、先端的なOA機器については、即時損金処理の範囲をむしろ拡大することが必要なのである。これによって企業の情報化投資が促進され、ベンチャー企業やSOHOなど、日本が立ち遅れている分野での活動を活性化することができる。さらに、即時損金算入措置は、短期的な需要創出効果も強い。すでに述べてきたように、将来に対する不確実性が強い場合には、所得に対して減税しても、貯蓄を増やすだけの結果に終わる。需要創出のための減税は、所得に対して行なうのでなく、支出に対して行なうべきだというのが、経済学の常識だ。

自由な市場の機能維持

米国式経営文化は市場メカニズムへの強固な信仰の上にあるが、これは秩序を守り、調和を重んじる我々の伝統文化と対立する。忘れてはならないのは、市場メカニズムは効率的な資源の配分に不可欠であるが、ときに暴走することである。市場の健全な機能と社会の安定を両立させるのは容易なことではない。

時に暴走しても、自由な市場の機能を維持することこそ最善の選択だとする市場原理主義、その極端な現れはカネがすべての荒々しいウォール街文化であり、その象徴として常に話題になってきたのが、米国の投資銀行やへッジファンドの野放図なふるまいであった。

これらの機関で中心的役割を果たし、金融革新を進める金融エンジニアやトレーダー、ファンドーマネージャーたちの台頭が著しい。これからのグローバルな金融再編のなかで、その新しい文化と、保守的な我が国の銀行家たちの文化の対立も激化しよう。そして各種の異文化衝突の管理は、わが国の経営や行政に新しい挑戦課題をつきつけるだろう。

もとより、経済のグローバル化にともなう国境を越えた企業の買収合併や提携は、金融の分野に限った現象ではない。自動車にせよ、通信産業にせよ、クロス・ボーダーの合併や提携がいつも新聞の経済欄のにぎやかな話題になっている。しかし、「金融再編」という特別な言葉で語られるように、金融の分野には、経済のグローバル化といった説明では言いつくせない何かがあるようである。

法政大学の金子勝教授か指摘するように(一九九九)、日常の商取引は、顔見知りの企業や個人の間で互いに信頼を保ちながら行われている。これは「顔の見える市場」である。しかし経済取引が拡大し複雑になってくれば、売り方と買い方が互いに知らなくても、仲立ち人を介在させて売買が行われる取引所の取引、さらに近年は情報・通信技術の発達でコンピューターが媒介する「顔の見えない市場」が発達してきた。

これらが生産と消費を仲立ちする交換の時間リスク、取引コストの節約をもたらし、そこで自由に形成される価格は、経済の安定と効率性を高めるはずであった。これは新古典派経済学の描く市場のイメージに近いだろう。ここまではモノの世界もカネの世界も同じである。

あきらめは禁物

現在の研究テーマである「ヒトの人工染色体形成」は、八三年に名古屋大の教授になった時から取り組んでいるものです。人間の染色体を人工的に作る研究で、藤田保健衛生大に移った今も続けています。遺伝子の本体のDNAは細胞内では「染色体」の形で存在し、染色体は細胞分裂する際に倍に増え、半分ずつ新たな細胞に分かれていきます。それなら、DNAが複製される時に起点になる部分と、倍に増えた染色体を分ける機能を持った部分を一緒にすれば、染色体ができるのではないか。そう考えたのです。

酵母菌では成功していましたが、哺乳類のような高等動物で試みるのは冒険でした。ですけど、共同研究者にも恵まれ、九七年に名古屋大を退官するまでに成功しました。今後の課題は応用面です。たとえば、人工的に作り出した染色体になんらかの遺伝子を乗せ、ヒトの細胞に入れれば、遺伝子治療にもつながります。他の染色体も傷付けません。大きな可能性を秘めた研究です。分子生物学の分野で世界的な業績を上げたということで、二〇〇〇年一月に、「ロレアルーヘレナールビンスタイン賞」を頂きました。ユネスコとフランスの化粧品会社ロレアルグループが毎年、世界五大陸の女性生命科学者一人ずつに贈る賞ですが、受賞をきっかけに、女性が働くということについて考えるようになりました。

私自身は、二十二歳で結婚し、目の前の仕事をこなすのに精いっぱいで、そうした問題を深く考えてみることはありませんでした。ところが、ロレアル賞を受賞して、いろいろな場所に引っぱり出され、話したり聞いたりするうちに、自分が歩んできた道の大変さがわかってきたのです。名古屋大の理学部では、女性教授は私が初めてでした。それまでは、業績があっても教授にはなかなかなれなかったのです。

大学で生物学を学ぶ女性は比較的多いのですが、大学院、それも博士課程へと進むにつれて減ってしまいます。研究に向いているかどうかより、展望が持てないからだと思います。日本の女性教官の数の少なさも、それを物語っています。就職の際も、「博士課程の女性は勘弁して」という会社が多い。パリでのロレアル賞授賞式の後、「科学と女性」というテーマで討論会が行われました。世界中の女性科学者が、共通の悩みを抱えていました。もちろん社会制度の助けも必要ですが、女性たちがあきらめないことが大切です。討論会のスローガンは、「ネバー・ギブアップ」。日本の女性たちにも、この言葉を贈りたいですね。

上司や他の部局との人間関係

国連職員は、事務次長、事務次長補以下、部長にあたるD2、部長代理にあたるDI、課長にあたるP5、中堅のP4、P3からPIまでの等級に分かれている。勤務評定は二年に一度、課長以上の管理職がまずAからEまでの五段階で考査し、上司が決定する。普通は試用期間を経てPIからP5までは、平均三年から五年で昇進していくが、P5以上になると、いわゆるポリティカル・アポインティーと見なされ、出身各国の後押しが増えてくる。各国の政治力が介在するのは、こうした場面だ。なお、国連では、女性登用を進める動きがあり、昇進に必要な実務経験の短縮を認めるなど、性差別は是正される方向にある。

国別に見ると、多い順から米国の千八百八十人、フランスの千二百四十人、英国の千百七人、ドイツの六百八十七人、カナダの六百四十二人、イタリアの六百三十七人、旧ソ連の六百十八人、オランダの六百人となっている。日本は九番目の四百六十七人で、幹部はそのうち六十人前後だ。また、事務局に限って見ると、日本は八二年から八六年まで百人を上回っただけで、その後は九十人前後にとどまっている。事務局が分担率や人口などをもとに算定している「望ましい職員数の範囲」から見ても、その目標の半分にも満たない数だ。

また、職場異動については、空いたポストを公表して志望を聞くことになっているが、実際には人気のあるポストについては情報を得た職員が事前運動をして内定を決めることが多く、その点でも、上司や他の部局との人間関係を日頃から円滑にしておく必要がある。日本人職員は、実務能力では高い評価を得ているものの、こうしたパフォーマンスが苦手で、昇進にはマイナスになっていると言う人が多い。

アメリカ人の理想として描かれつづけてきた独立自営農民

このような都市の人間像は、純朴で正直な独立自営農民のイメージと、まったく対照的であった。ジェファスン的基準でいえば、都市の人剛は国民の「不健全」な部分であり、その「不健全」な部分が、こんなに増加したのはアメリカがそれだけ「腐敗」したことを意味するのであったのかもしれない。そして、じっさい、そういう独立自営設民的なアメリカ人像と、スマートな都市的アメリカ人像とが正面からぶつかり合った歴史的事実もある。たとえば十九世紀おわりにはじまる禁酒運動などがその適例だ。

シンクレアは、禁酒法およびそれに先行する禁酒運動を、本質的には、農村と都市との利害の衝突とみた。というよりも、都市文明にたいする農村からの敵意のあらわれとみた。かれによれば、一八九六年の大統領選挙でマッキンレイがブライアンを破ったときから、農村の都市に対する恐怖感は決定的に強化された。アメリカの政治への、農業のがわからの発言権がこの大統領選挙以来、大幅に減ったのだ。経済面では富は都市に集中し、農村は、ますます取り残されてゆく。

アメリカ人の理想として描かれつづけてきた独立自営農民は、人間像としては依然として理想であっても、その事実上の力からみると完全に無力化した。ホフスターのことばを借りれば、「ほとんどすべての人から口先であたえられる賞讃と、じっさいにあたえられている経済的地位との落差を考えてみると、農民たちは困惑し、また腹立たしさをおぽえるの后」

そんな危機感から、農民たちは、あらゆる都市的なものを「悪Lとしてみた。都市の膨脹は、アメリカにおける「悪」の肥大化であった。農業が「神のあたえ給うた」土地のうえで着実に進行しているのを、都市という名の悪魔が妨害しようとしている。そんなふうに農民たちは考えた。彼らによれば、アルコール飲料も、都市のものである。アルコールは都市から村の酒場に流入する、悪魔の飲料であった。アルコールを攻撃することで都市を攻撃するというのは、どう考えてもヒステリー反応としか言いようがないが、そのヒステリー反応が、ついに禁酒法をつくってしまった。

ジェファスン的小農民のもつ人格的イメージは、それなりにみごとなアメリカ人の理想像だ。しかしその理想像と交替しあって二十世紀になってからとりわけきわ立った存在になってゆくのが都市のアメリカ人である。こんにちのわれわれが皮相的にうけとるすべての「アメリカ的」なものは、はっきり言ってことごとく都市のものだ。都市と農村の対立は、いうまでもなく、人類史上に都市が発生したときからはじまっている。